2024.2.22 催事情報を公開しました。

井筒八ッ橋の歴史

history

井筒八ッ橋本舗の
はじまり

文化二年(1805年)、初代津田佐兵衞が業を起こし、そこから井筒八ッ橋本舗の歴史がはじまりました。
当時祇園の茶店で人気を博していた堅焼きせんべいが、箏曲の祖・八橋検校の遺徳を継承した琴姿の「八ッ橋」です。
これこそが「井筒八ッ橋」として今に受け継がれている、井筒八ッ橋本舗の原点でございます。

「花街文化を形作った井筒茶店」

京都を代表する花街・祗園は、八坂神社や清水寺、知恩院などの参拝客を相手する茶屋から発展しました。
祗園町に七軒の櫓(芝居小屋)が認可されると、たちまち「花街・芸能」の京の一大花街に発展しました。
その歴史を伝えるのが「井筒茶店」でございます。慶長三年(1603年)初代女将岸野ぬしが創業。元禄期の初代主人・岸野治郎三は三味線奏者(早雲座縦立三味線)、作曲家であり「三弦の名手」と謳われました。赤穂浪士大石内蔵助良雄は井筒茶店に度々訪れては、治郎三と交友し鳴神で「狐火」という曲を共作しております。
その後、文化二年1805年に井筒茶店との関わりを持ち、初代津田佐兵衞が「井筒」を創業し茶菓子、米、味噌、醤油販売と井筒茶店の仕出しを行いました。
当時祇園の茶店で人気を博していた堅焼き煎餅が、箏曲の祖・八橋検校の遺徳を継承した琴姿の「八ッ橋」です。これこそが唯一「八橋検校」の由来をもつ「井筒八ッ橋」でございます。

「京名物 井筒八ッ橋」

「京名物 井筒八ッ橋」は、箏曲八橋流(そうきょくやつはしりゅう)の創始者・八橋検校(やつはしけんぎょう)にあります。江戸時代、京都で作曲の日々を送っていた検校。常に物を大切にする検校は、特にお米を大切にしており、飯びつを洗うときに残るわずかな米のことが気になっていました。ある朝、日頃検校が何かにつけて日頃世話になっている井筒茶店の主人「岸の治郎三」が、飯びつや桶を洗っているのに気付き、残った米を捨ててしまうのはもったいないと諭し、小米、砕米、そしてその残りの米に、蜜と桂皮末を加えて、堅焼煎餅を作るとよいと教えたといいます。これが、京の堅焼煎餅の起こりと伝えられています。
その後、八橋検校は、貞享二年(1685年)その生涯を閉じ、井筒茶店も含め祇園の茶店中で検校を偲び、琴の形に仕上げた堅焼煎餅を「八ッ橋」と名付け売り出したところ、それが大流行したと伝えられています。

八橋検校

八橋検校 慶長十九年(1614年)~貞享二年(1685年)
盲人の職の組織「当道座」で最高位を表す「検校」に就き、筝曲「六段の調べ」など数々の名曲を生み出した人物。

八橋祭

八橋祭

八橋検校を偲び、五代津田佐兵衞(吉次郎)は八ッ橋工業協同組合の理事長として八橋検校の報恩忌を昭和24年に挙行したのが八橋祭の始まりです。その後も八橋検校の遺徳を偲び、報恩感謝、社業の発展を誓う日として、本来の「心」を重要視した法要を八橋検校の命日にあたる、毎年6月12日に常光院(通称八はしでら)において厳粛に継続をしています。

  • 八橋検校の墓

    八橋検校の墓

  • 八橋検校の碑

    八橋検校の碑

  • 八橋検校道場の跡

    八橋検校道場の跡

歌舞伎銘菓
夕霧

歌舞伎「廓文章」に因んだ上菓子

井筒八ッ橋本舗の発祥の地は、祇園・南座前。当時祇園南座に出入りしていた五代津田佐兵衞は劇作家の高谷伸や歌舞伎俳優林又一郎、片岡仁左衛門丈らと相談し、歌舞伎に因みお客様に喜んだいただける上菓子をと考案したのが、つぶあん入り生八ッ橋「夕霧」です。「夕霧」は歌舞伎の実在した夕霧太夫と恋人・藤屋伊左衛門を描いた「廓文章」から、舞台で藤屋伊左衛門が持つ網笠模様に生八ッ橋を仕立て、その中に小倉餡を包みこみ、主人公の名前「夕霧太夫」から商品名を「夕霧」と名付け、昭和22年から販売を開始しました。
京都嵯峨発祥の「小倉あん」を「生八ッ橋」で包んだ小倉あん入り生八ッ橋「夕霧」を誕生させ、格調高く、伊左衛門の舞台衣装を木版すりのかけ紙にして販売し、現在もご好評をいただいております。

夕霧太夫肖像

夕霧太夫

夕霧太夫延宝六年(1678年)没

夕霧太夫は、本名「てる」といい嵯峨中院に代々嵯峨大覚寺出入りの宮大工の次女として誕生しました。夕霧は「松の位」という最高位の太夫で、あらゆる学問芸能に才能がある遊女として活躍、京都や大阪の廓で名を馳せていましたが、延宝6年わずか26才の若さで生涯を閉じました。その後、二代目夕霧太夫として、初代中村鴈治郎の末娘として生まれた女優中村芳子が昭和55年に襲名しました。(写真は二代目夕霧太夫・中村芳子)

夕霧祭

六代津田佐兵衞は、昭和35年、夕霧太夫を偲ぶ供養のため縁の人々を世話人として「夕霧の会」をおこし、その年3月27日に第一回「夕霧の会」法要を夕霧大夫の生誕地近く、嵯峨・清凉寺で営みました。その後、「夕霧の会」にて毎年法要が執り行われ、京都の年中行事として名称を「夕霧供養」とし、現在は毎年11月の第2日曜日に「夕霧祭」として、太夫道中と法要を営んでおります。

夕霧祭

叙情銘菓
夕子

京を舞台にした水上文学ゆかりの品

夕霧の発売から20数年後、つぶあん入り生八ッ橋の普及品として誕生した「夕子」は、水上 勉の代表作である小説「五番町夕霧楼」の主人公、片桐夕子に因んだ叙情銘菓です。小説は、京都の代表的観光地である金閣寺で起こった火災を題材に、夕子と僧侶正順との純粋な愛といつくしみ、そして山村の原風景が美しく描かれています。その著者である水上勉先生ご本人に六代津田佐兵衞が許諾を得て、主人公の名前「夕子」を商品名にいたしました。京の町と夕子の素朴な美しさを込めたお菓子として、昭和47年より水上文学ゆかりの京名物として現在も定番商品から、さまざまな季節商品を発売しています。

京都嵯峨発祥
小倉あん

日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、平安京ができて間もなくの870年頃のこと。当時、この辺り小倉の里(京都嵯峨・小倉山麓)に和三郎という菓子職人がいて、809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮詰めて餡を作り、これを毎年御所に献上しました。
この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり、又一方では祝飯として、ハレの料理にも加えられるようになりました。
和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業者の人々がその功績をたたえて、小倉中字愛宕「ダイショウ」の里に一社を建て、朝廷の充許を得て、屋号が亀屋和泉でありましたので、和泉明神としてまつられるようになりました。

小倉大納言

京の小豆「小倉大納言」

井筒八ッ橋本舗では、原点である小倉で最高の餡を作りたいと、発祥の地である嵯峨の小倉山麓で、小倉大納言を現代に蘇らせました。
発祥の地小倉の風土で栽培した小豆は大粒で、皮が柔らかく、味や香りが濃いのが特徴で、今までにはない風味豊かな小豆です。「小倉大納言」はより小豆の風味をお楽しみいただける、小倉餡を使った井筒八ッ橋のブランドです。

小倉大納言

小倉あん発祥地 顕彰式

小倉の里にある、二尊院の境内に、小倉あん顕彰碑を建設。また、小倉の里にて小倉大納言小豆の栽培を復活させる取り組みにも力を入れております。

小倉あん発祥地顕彰式典